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西陣織のなごや帯、きもの、和装品の呉服 粋匠苑

西陣織のなごや帯、きもの、和装品の販売


西陣織のなごや帯、きもの、和装品の呉服 粋匠苑
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西陣織いろいろ
着物の装いの早覚え法として「(正装は)染めの着物に織の帯、(趣味着は)織の着物に染めの帯」という言葉がある。染めの着物とは同じく京都の特産品である友禅のことで、織の帯とは最も品格が高いとされる西陣の錦をさす。続く織の着物とは紬などの格の低い趣味的な織物のこと、染めの帯は友禅などの染め模様の帯をさす。 * 14代将軍徳川家茂は京都行きが決まると妻和宮に故郷の土産は何がよいかと訊ねたところ、和宮は西陣織をねだった。しかし家茂は大坂城で亡くなり、和宮には西陣織が届き悲しみつつ歌を詠んだ。

西陣織

西陣織(にしじんおり)とは、京都の先染め織物をまとめた呼び名である。 西陣とは、応仁の乱時に西軍が本陣を置いたことから、この名前がつけられた京都の地名。 ただ、西陣という行政区域は特別にはないが、この織物に携る業者がいる地区は、京都市街の北西部、おおよそ、上京区、北区の、南は今出川通、北は北大路通、東は堀川通、西は千本通に囲まれたあたりに多い。応仁の乱を期に大きく発展したが、応仁の乱より昔の、5世紀末からこの伝統が伝えられている。 また、西陣、西陣織は「西陣織工業組合」の登録商標。

現代の西陣
西陣は第2次大戦後,機械化がさらに進み,新しい技術が次々に導入されました。現在では,技術の高度化とともに作業工程は細かく分業化され,そのほとんどの工程を中小企業がになっています。  一方で,労働力を求めていわゆる「出機」(でばた,下請け工場)の地区外化が進み,例えば西陣帯の約6割が京都市外で織られています。また最近では高級な着物や帯だけではなく,ネクタイやバッグ,カーテンやお守りの袋など多様な織物も製造されるようになりました。社会の変容に対応した変化が,西陣織にも求められています。  昭和51年には綴織(つづれおり)・錦織(にしきおり)・緞子(どんす)・朱珍(しゅちん)・紹巴(しょうは)・風通(ふうつう)・綟り織(もじりおり)・本しぼ織・天鵞絨(ビロード)・絣(かすり)・紬(つむぎ)の11種が,国から伝統的工芸品に指定されました。

西陣の由来
西陣織とは京都西陣の地で生産される織物の総称です。西陣という地名は,応仁・文明の乱(1467〜77)の西軍,山名宗全(やまなそうぜん,持豊,1404〜73)の陣所に由来し,彼の邸宅があった山名町(堀川通今出川上る西入)とともに,乱の名残をとどめている数少ない地名です。  地名としての初見は『蔭凉軒日録』(いんりょうけんにちろく)文明19(1487)年正月24日条で,乱後10年で西陣が地名化していたことがわかります。江戸時代には,北は今宮神社御旅所,南は一条通あるいは中立売通,東は堀川通,西は七本松通にわたる一帯を西陣と呼んでいました。  ただ現在,西陣警察署や西陣郵便局,西陣中央小学校など「西陣」の名を冠する施設はいくつかありますが,西陣という行政地名はありません。また,今では西陣織関連の業者は,北は鷹峯(たかがみね),南は丸太町通,東は烏丸通,西は御室附近にまで広がっています。

西陣織のはじまり
平安初期の律令制のもとでは,大蔵省に属した織部司(おりべのつかさ)が最高級の織物を生産していました。しかし,律令体制の崩壊にともなって,平安末期あたりから朝廷は工房を維持することが難しくなっていきました。  そこで織工達は大舎人町(おおとねりちょう,現在の猪熊通下長者町附近)に移り住み,宋の綾織技法を模倣した唐綾を,貴族の装飾用に製作しました。これが,民業による製織のはじまりです。南北朝期に成立した『庭訓往来』(ていきんおうらい)からは,「大舎人綾」や「大宮絹」が京の名産として有名であったことがわかります。  応仁・文明の乱の間,大舎人町の織工達は,堺などに逃れていました。乱が終結すると京都に戻り,東軍本陣跡の白雲村(現在の新町通今出川上る附近)では練貫座(ねりぬきざ)が,西軍本陣跡の大宮あたりでは大舎人座が組織されました。そしてそれぞれが対立しながらも,京の機業をリードしていきました。  16世紀になると,大舎人座が将軍家直属の織物所に指定され,また元亀2(1571)年には,大舎人座31家のうち6家が,宮廷装束を製織する御寮織物司(ごりょうおりものつかさ)に任じられました。これ以降,この6家を中心として西陣の機業は発展していきました。

西陣織の黄金時代
安土・桃山時代には,堺を経て明の技術が輸入されたことから新しい織物が発案され,高級精妙な西陣織の基礎が築かれました。  江戸時代に入ってからは,幕府の保護のもと西陣の黄金時代を迎えました。特に西陣の中心だった大宮通今出川交叉点附近は,千両ヶ辻と呼ばれていました。毎晩のように下京の糸商人がやってきて,千両を超える糸取引が行われていたことから,この名が付けられたといいます。  またいわゆる「京の着倒れ」(きだおれ)という言葉も江戸時代に登場します。十返舎一九(じゅっぺんしゃいっく,1765〜1831)の『東海道中膝栗毛』(とうかいどうちゅうひざくりげ)に   商人のよき衣きたるは他国と異にして,京の着だをれの 名は益々西陣の織元より出 とあり,京の人々の衣服への関心の高さとともに,西陣を中心にした京織物の名声がうかがえます。


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